【ジブリッシュ】合宿での気づき①:思い込みからの解放

先週末の2日間、ジブリッシュ・プロフェッショナル講座の第一回目を受講して、指導者になるための43日間続く修業の道を歩みはじめました。

毎日の課題をやり終えた後、卒業の頃にはどんな世界が待っているのか、今から楽しみです♪

アウトプットすることは最短での深い学びに繋がりますが、愛好者としてのジブリッシュから、伝える立場のジブリッシュになると、「意味がないこと」がさらに深い意味を持つようになりました。

ジブリッシュとは「意味がない言葉を話す」非言語コミュニケーションです。

でたらめな言葉で感情を表したり、人とコミュニケーションしたりします。

演劇の練習で、俳優さんが難しいセリフ回しに気をとられずに感情を表現する演技を磨くために使われたりするそうです。

ジブリッシュの効用としては、1)思考を停止して脳を休める、2)感情を解放する、3)コミュニケーション力をあげる、と一般的に言われていますが、私は一つ追加して、4)思い込みのリミッターを外す、の4つだと考えています。

想像力や表現力を高めたいクリエイターの方々だけでなく、ストレスを解消してスッキリしたい人、自由な思考でお仕事の生産性をアップしたい人、ウキウキ感を高めて人生を輝かせたい人、認知症の方とコミュニケーションする場がある方など、ジブリッシュは様々な人のお役に立つツールです。

2日間の合宿での興味深い体験と気づきを、何回かに分けてご紹介します。

まずは上記の4つめ「思い込みのリミッターを外す」に関わる体験を「言葉」と「身体」の二つの観点からお伝えします。

【言葉によるリミッターが外れる】

言葉は抽象的な概念を表せる素晴らしいツールですが、言葉によって色々なものが実は制限されてしまっているんだな~ということをジブリッシュで話してみると感じます。

例えば、道端に咲いているお花が美しいなと思って、「とても綺麗なピンク色の花」と言葉で表現したとしましょう。

誰かにそれを伝えようとした途端、頭の中で、「”とても”と言ったけれど、よく見るありふれた花だし、他の花と比べて特別に美しいかな?」などと、思考による言葉の定義が邪魔をしてきたりしませんか?

そのありふれた花を見たとき、自分はなんだかとても美しいなあと思ったのは事実なのですが、言葉にすると余計な思考が入ってきて、その時に感じた思いをそのまんま受け取れなくなっている自分がいます。

また、そのお花をじっと見つめて、何も言葉でラベリングしないで、ただありのままを見ると、「赤い花」だと思っていたのが、実は白い花びらに赤く小さな斑点が散らばってグラデーションになっていたり、雄しべや雌しべは黄色やオレンジ、さらに知らなかった絶妙なデザインを発見したりします。

黙って見つめるのもよいのですが、ジブリッシュで意味不明な言葉をつぶやきながら一つずつの発見を確認しながら行うと、頭の中にあった、ぼんやりとした発見がはっきりとした形をなしていくんです。

発している言葉はジブリッシュ「〇X△hjシsf0frウ」ですけれど、お花との会話を翻訳すると、「わ~、ピンクだと思ってたけど、白地に赤い斑点があるんだね~、すごいね」、「雄しべの花粉は黄色とオレンジのグラデーションで、ふわっふわ。よくこんなの作れたね~、大したもんだね~」といった具合です。

言葉の意味に縛られず、しかし発声することによって、自分の思考を形にする、そんなツールとして使えるのだと感じました。

【身体の動きによるリミッターが外れる】

「Motion creates emotions:動作が感情を作る」ということは『微笑みヨガ』のクラスの中でもよくお伝えしています。

笑う動作が明るい感情を作ったり、手足を体幹から話して大きく動かしたり、目線を上にあげてやった~のポーズをしたり、皆さん感情が上向きになるのを感じてくださっているので、大学での実験結果は確かにそのとおりだと思います。

Emotion creates montionsとも言われ、心と身体の動きは密接に関係していますよね。

今回の合宿の会場は高台にあり、窓を開け放つと富士山が目の前に見える、床がピカピカの、広々とした禅堂でした。

祈りが捧げられる場所に特有の清々しくも優しい空気が流れていました。

道場の情景を思い出すと「あっぱれ」という言葉が頭に浮かびます。

話しはそれますが、「あっぱれ」ってどんな意味なのだろう?私は正しく使えているのか?と思ったので、調べてみました。

「哀れ」は感動語「あは」に接尾語の「れ」が付いたもので、喜びも悲しみも全て、心の底から湧き出る感情を表す言葉。それに感動を表す「っ」が追加されて、称賛する気持ちを表す言葉として鎌倉時代より使われるようになったそうです。

私の感情をたっぷり揺さぶってくれたあの道場にぴったり。「あっぱれ」な道場でした。

話を戻しますと、その広い道場の中で、意味がない言葉をしゃべり、身体をめちゃくちゃに意味なく動かし、未だかつて誰もやったことのない、最も意味がない(=アホな)行動を自分で考えてやりました。

スピーカーに向かって、あなたはなんでここにいて、こんな形をしているんですか?と話しかけてみたり。

それが終わると気持ちよく手足を動かして踊ったりジャンプしながら移動して、また目に入ったものに接近して、また意味のないことをします。

和太鼓に向かって、今まで誰もやったことのない角度から接近して、さわさわと音をたててみたり、屏風の書に向かって、墨の滲み方のあれこれについて議論したり。

すべて思いつきで意味がないことばかり。

アホらしいことをしている自分に、可笑しみがこみあげてきて、だんだんと心地よくなってくるから不思議でした。子供心に返る、とはこういうことなのかと。

最初はアホな行動を演じている感があるのですが、だんだんと没入してくると、どんどんやりたくなってくるんです。前の行動を越える、もっとアホな行動をして、もっと自分で可笑しくなりたい、そんな感じですね。

背中を床につけて手足をバタバタさせてめちゃくちゃな動きをしていたら、新鮮な感覚が湧き上がってきました。

わけの分からない言葉をわめきながら、好きなように四肢を動かしていると、あ~、こんなこともやってもいいんだな~、と自分に許可を出したり、こうやると、なんだかウキウキするな~、などの感情が生まれたりしました。

足だって手のように動かすことができるのに、いつもは歩行のためにしか使われない。足だって遊ぶツールになれるはず。足を優雅に動かせるかやってみよう、などなど。

足は歩くものではなく、遊ぶものになってもいいんだ。

子供心に返っている私は、ちょっと嬉しい発見をしたような気分になりました。

そして帰宅後、翌朝のオンライン・ジブリッシュ朝活にて、ジブリッシュの会話の中で、足を使って感情表現をしてみました。

何名かが一緒に乗ってくれて、足を使いながらしゃべる、そんなアホなコミュニケーションができました。おそらくZOOM史上初めて、画面にたくさんの足がうごめいているアホな光景になりました。

合宿に行く前はまさか足を使おうなんて発想はありませんでした。

43日間の修業のテーマは「個性と感性を輝かす」。

もうすでに個性を出したくてしょうがなくなっている、人と同じように手振りだけで話すのでは飽き足らなくなっている自分がいました。もっと面白くする方法は何かないかしら、と探している自分がいました。

よい学びのスタートを切りました。

合宿での体験談は、また次回に続きます。

長文お読みいただき、ありがとうございます。

Photo by Fuku-chan